- 「エングラム(記憶痕跡)」とは何か、100年越しの謎だった理由
- 光遺伝学によって記憶の物理的な正体が初めて実証された実験
- 記憶は書き換えたり、感情の質を変えたりできることを示した研究
- 「忘れる」ことは記憶が消えることではない、という最新研究の知見
- これらの研究から、自分の記憶力とどう向き合えばよいか
昨日の出来事も、子ども時代の思い出も、私たちは当たり前のように「覚えて」います。
しかし、その記憶は脳のどこに、どのような形で存在しているのでしょうか。
実はこの問いは100年以上にわたって答えの出なかった、脳科学における大きな謎でした。
近年、光を使って脳の特定の神経細胞だけを操作する「光遺伝学」という技術によって、記憶の物理的な正体にようやく迫れるようになってきています。
この記事では、記憶の物理的な基盤とされる「エングラム」という考え方の歴史と、それを実証した実験、そして「忘れる」ことの正体に迫る最新の研究までを、わかりやすく解説します。
記憶はどこにある?│脳の記憶の仕組みを探る「エングラム」という考え方
記憶が脳のどこかに物理的な痕跡として刻まれているはずだ、という考え方自体は古くからありました。
20世紀初頭、ドイツの動物学者リヒャルト・ゼーモンは、刺激によって神経系に残る痕跡を指す言葉として「エングラム(engram、記憶痕跡)」という概念を提唱しました。
しかし、そのエングラムが脳のどこに、どんな形で存在するのかは、長い間ほとんど分かっていませんでした。
脳の一部を損傷しても特定の記憶だけがきれいに消えるわけではないことなどから、「記憶はどこか一箇所に保存されているのではなく、脳全体に広く分散しているのではないか」とする説も根強く唱えられ、”記憶の物理的な実体を探す旅”は長らく手がかりのないまま続いていました。
この状況を大きく変えたのが、2010年代に入って本格的に使われるようになった「光遺伝学(オプトジェネティクス)」という技術です。
特定の神経細胞だけに光に反応するタンパク質を発現させ、光を当てることでその細胞だけをオン・オフできるようにする手法で、これにより「特定の記憶が作られたときに働いていた神経細胞そのもの」をピンポイントで再び働かせることが可能になりました。
▽ 分かりやすく要約 ▽
20世紀初頭のリヒャルト・ゼーモンによる「エングラム」の提唱から、2010年代以降の光遺伝学(オプトジェネティクス)を用いた記憶細胞の特定に関する研究プロセスを視覚化しています。
光でよみがえる記憶│2012年の画期的な実験
記憶の物理的な正体に迫った研究として特に知られているのが、MIT・理化学研究所の利根川進氏らの研究チームによる一連の成果です。
2012年、研究チームはマウスに軽い電気ショックを与えて恐怖の記憶を作る際、そのとき活動していた海馬の神経細胞群だけに光感受性のタンパク質を発現させました。
後日、電気ショックとは無関係の別の場所にマウスを置いた状態で、標識しておいた神経細胞に光を当てて人工的に活動させたところ、マウスはその場所で電気ショックを受けたわけでもないのに、すくみ行動(恐怖反応)を示しました。
これは、特定の記憶を担う神経細胞群——
すなわちエングラム細胞を人為的に再活性化させることで、記憶そのものを人工的に呼び起こせることを世界で初めて実証した研究でした。
100年以上「概念」でしかなかったエングラムが、初めて「特定できる、操作できる神経細胞群」として実体を持った瞬間だったと言えます。
▽ 分かりやすく要約 ▽
Liu, X., Ramirez, S., Pang, P. T., Puryear, C. B., Govindarajan, A., Deisseroth, K., & Tonegawa, S. (2012). Optogenetic stimulation of a hippocampal engram activates fear memory recall. Nature, 484(7394), 381-385.
記憶は書き換えられる?│存在しない記憶を作る実験
翌2013年には、同じ研究チームがさらに踏み込んだ実験を発表しました。
ある環境Aで通常の(電気ショックのない)経験をしたマウスの脳内で、そのとき活動した海馬の神経細胞をあらかじめ標識しておきます。
その後、マウスを別の環境Bに移して電気ショックを与えると同時に、環境Aの記憶に対応する神経細胞を光で人工的に再活性化させました。
すると、マウスは一度も電気ショックを受けていないはずの環境Aに置かれただけで、恐怖反応を示すようになりました。
これは、実際には経験していない「環境Aで怖い目にあった」という虚偽の記憶を、神経細胞のレベルで人工的に作り出せることを示した実験です。
▽ 分かりやすく要約 ▽
Ramirez, S., Liu, X., Lin, P. A., Suh, J., Pignatelli, M., Redondo, R. L., … & Tonegawa, S. (2013). Creating a false memory in the hippocampus. Science, 341(6144), 387-391.
人間を対象としたエリザベス・ロフタス氏の心理学実験が、質問の仕方や情報の与え方によって虚偽記憶が生まれることを示したのに対し、こちらはマウスの脳内で、記憶を担う神経細胞そのものを直接操作することで、同じような虚偽記憶が作れることを示した点が対照的です。
さらに2014年には、同じ手法を応用して、嫌な記憶に結びついた神経細胞を再活性化させながら楽しい経験をマウスに与えることで、記憶の感情的な”色合い”(嫌な記憶か、楽しい記憶か)を後から書き換えられることも示されました。
ただし、この感情の書き換えが成立したのは海馬の神経細胞に限られ、より原始的な恐怖反応に関わる扁桃体ではこの書き換えは起こらなかったと報告されています。
記憶が状況に応じて作り直される、いわゆる「再構成記憶」という考え方は、多くの人が同じ内容を誤って記憶してしまう「マンデラ効果」を理解するうえでも重要な視点ですが、こうした一連のエングラム研究は、その”作り直し”が神経細胞レベルで実際に起きていることを裏付ける生物学的な証拠だとも言えます。
「忘れる」ことは、記憶が消えることではなかった?
もう一つ、近年の研究で注目されているのが「忘却(忘れること)」の正体です。
従来、忘れるということは記憶そのものが消えてなくなることだと考えられがちでした。
しかし近年の研究では、これとは異なる可能性が示されています。
マウスを使った実験では、一度は覚えたはずの経験を「忘れた」ように見えるマウスでも、その記憶に対応するエングラム細胞の数自体は、きちんと覚えているマウスと大きく変わらないことが分かっています。
違うのは、そのエングラム細胞が思い出す際にきちんと”呼び出される”かどうかです。
実際、光を使ってその細胞群を人工的に再活性化させると、一見忘れていたはずの記憶をマウスが思い出すという結果が報告されています。
つまり「忘れる」というのは、記憶の痕跡そのものが消去されるのではなく、痕跡は残ったまま、それを呼び出す経路にアクセスしにくくなっている状態である可能性がある、ということです。
ちょっとしたきっかけ(リマインダー)を与えると、忘れたはずの記憶が呼び出されやすくなるという報告もあり、忘却は単なる劣化ではなく、脳が状況に応じて記憶へのアクセスを調整する、能動的な仕組みなのではないかとする見方も出てきています。
▽ 分かりやすく要約 ▽
Ryan, T. J., Roy, D. S., Pignatelli, M., Arons, A., & Tonegawa, S. (2015). Engram cells retain memory under retrograde amnesia. Science, 348(6238), 1007-1013.
なぜこの研究が重要なのか
ここで紹介した実験は、いずれもマウスを対象とした基礎研究であり、光遺伝学によるエングラムの直接操作は、現時点で人間に応用されている技術ではありません。
人間の記憶がマウスとまったく同じ仕組みで働いていると単純に言い切ることもできず、あくまで「記憶の物理的な基盤を理解するための重要な手がかり」として捉える必要があります。
それでもこれらの研究が示しているのは、記憶が決して固定された”データ”ではなく、脳の中で活発に管理され、作り直され、時にはアクセスしにくくなる、ダイナミックな仕組みだということです。
これは、この記事の冒頭で触れた「記憶はどこにあるのか分からない」という長年の謎に対して、脳科学が着実に迫りつつあることを示す成果でもあります。

自分の記憶力を大切にするために
記憶の物理的な正体が少しずつ明らかになってきたとはいえ、日々の記憶力や集中力と向き合ううえで大切なのは、基礎研究の最先端を追いかけることそのものではなく、自分自身の生活の中でできることを積み重ねることです。
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まとめ
「記憶はどこにあるのか」という100年以上の謎は、光遺伝学という新しい技術によって、少しずつその輪郭が見え始めています。
特定の神経細胞群を人工的に操作することで記憶を呼び起こしたり、感情の質を変えたり、忘れたはずの記憶を呼び戻したりできることを示した一連の研究は、記憶が固定された記録ではなく、脳の中で動的に管理されている仕組みであることを教えてくれます。
自分自身の記憶力についても、こうした脳科学の知見を踏まえながら、日々向き合っていきたいものです。

よくある質問(FAQ)
- エングラムとは簡単に言うと何ですか?
-
特定の記憶が作られたときに活動する神経細胞群と、その結びつきのことです。記憶の物理的な基盤(記憶痕跡)を指す脳科学の用語です。
- 光遺伝学を使った記憶の書き換えは、人間にも応用されているのですか?
-
いいえ、現時点ではマウスなど動物を用いた基礎研究の段階であり、人間の記憶を光で直接操作する技術として実用化されているものではありません。人間の記憶の仕組みを理解するための重要な手がかりとして研究が進められています。
- 記憶が「消える」ことと「思い出せない」ことは違うのですか?
-
近年の研究では、その可能性が示されています。忘れたように見える記憶でも、痕跡自体は残っており、思い出す経路がうまく働いていないだけという場合があると報告されています。ただし、これは特定の実験条件下での知見であり、あらゆる「物忘れ」に同じ説明が当てはまるとは限りません。
- 情報の正確性について:
本記事の内容は、執筆時点で確認できた学術論文・研究機関の発表資料等に基づき作成しています。正確性の確保に努めていますが、新たな研究知見や検証により、内容が更新される可能性があります。 - 研究の対象について:
本記事で紹介した光遺伝学によるエングラム操作等の実験は、主にマウスを対象とした基礎研究の成果であり、人間に対して同様の技術が実用化されているものではありません。動物実験の結果を人間にそのまま当てはめられるとは限らない点にご留意ください。 - 医療行為の代替ではありません:
本記事は一般的な脳科学情報の提供を目的としたものであり、医師による診断、治療、または助言に代わるものではありません。また、紹介している成分や製品は、疾病の診断、治療、予防を目的としたものではありません。 - 効果の個人差について:
GABA等の機能性関与成分に関する記述は、一般的な届出情報・研究知見に基づくものであり、特定の製品の摂取によって全ての方に同様の効果を保証するものではありません。体質や体調により、まれに合わない場合があります。 - 損害への責任:
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